写真家二人の自費出版雑誌『main』

創刊の20年間後、石内都と楢橋朝子が発行した同人誌写真雑誌を振り替えってみる対談 #independent

main_mw971.jpg

Ivan Vartanian(以下IV): 現在GOLIGAでは日本の写真雑誌の歴史を総括する出版プロジェクトが進行中です。85年の『カメラ毎日』が終了するまでは多数の雑誌が拮抗し、90年代に入るとコマーシャル写真に流れる作家も目立ったりと、細分化が進む。その時点でメジャー誌の勢いが衰え、カメラ雑誌につきものの名物編集者がいなくなってきたこともあり、雑誌の力がだいぶ落ちていってしまう。その中で独自のポジションを獲得していた、お2人が共同出版されていた写真誌『main』(1996-2000年)について今日はお話を聞かせてください。 

楢橋:私が90年に自分の写真を発表するための自主ギャラリー「03FOTOS」をオープンして、年に数回のペースで作品発表を行っていました。95年に初めてカメラ雑誌で1年間連載をさせてもらったのですが、その時まで印刷物って全然ピンと来たことがなかったんですよ。でも展示はその時だけのものですし、活動とか作品を何か別の形で残したいなという気持ちがだんだん出てきて、1人で印刷物を作ろうかと思ったんです。それを何気なく石内さんにお話したら、「一緒にやろうよ」ってさらっと言ってくださって、「ええ!」って(笑)。

石内:私は以前に「写真効果」というグループに属しておりまして、そこからキャリアを出発したのですが、そのグループが一度だけ出版した雑誌のために文章を書いたことがありました。その時の経験から、雑誌って今のリアルな状況を文字化して残す、記録できる面白いメディアだなって思ったんです。自分からやろうと思っていたわけではないのですが、なんとなく朝子さんとなら出来るかなと、すっと思えたんです。

楢橋:当時私は、ようやくカメラ雑誌に載りはじめたくらいの駆け出しだし、石内さんはその頃すでにスターですから、本当に驚きました。世間の皆様には私が無理やり口説き落としたんではと散々言われましたが(笑)、とにかくペーペーなので話しかける度胸だってろくになかったくらいなんです。でもせっかくそう言っていただいたので、それではちゃんとやらなくてはいけないと企画書を書いて、ではどんなタイトルを、と考えるところから始めました。創刊号にあるように、2人のイニシャルを合わせたら【main】になった。仏語で【手】を表し、マンとよむことにしました。女性2人でやっているから、「マン」というのも皮肉っぽくて良いかな、と。

石内:『百花繚乱』という女性写真家10人を集めた展覧会をやったことがあるんです。それもあって、1人ではなくて同性の誰かと何かやりたいというアイデアがどこか頭の中にいつもありました。『百花繚乱』の時は割と同世代の作家の方が多かったんですけど、朝子さんは少し年下でこれからっていう新しい感じがすごくあったから、私にとっても得だし(笑)、面白いかもしれない、と。何か新しいことが女2人で出来るかもしれないなっていうことで話しかけたら、自然な流れとして始まったという感じでしたね。やっぱりそれは時代的にカメラ雑誌が衰退しているタイミングでしたし、発表する場を自分達で作ろうという思いがはっきり有りました。

main <マン>1号(1996年3月3日)
編集発行人:石内都 楢橋朝子

Main, Vol 1, March 3, 1996
Editing & Published by Ishiuchi Miyako & Narahashi Asako

IV:西洋人から見れば、写真家が自分の雑誌を立ち上げることは非常に珍しいんです。森山さんも『記録』を作っていたし、長く続くものもすぐ終わるものも含めて、とにかく雑誌や自分のメディアを立ち上げること自体が日本人写真家の特徴の1つなんですよね。

石内:なるほど、面白いね。東松さんだって最初は自費出版だったし、写真を本のような形にして残すという、何か独特の文化的なアイデンディティがあるんじゃないですか。

IV:自分の写真をどういう形で発信するのか、ある程度文脈をコントロールしたいという欲求を感じます。インディペンデントなスピリットがすごくあると思いますね。

石内:自由にね、好き勝手に。それがやっぱり自費出版の最たるものです、誰の制約もないんだから。

楢橋:その当時は今みたいにコマーシャルギャラリーもあまりなかったし、メーカーギャラリーも興味がなくて、カメラ雑誌も昔みたいな勢いもない時代だったんです。だから同時代の写真家にとっては写真集が主な発表メディアだったのですが、そういうたいそうなものではなくて、もっと自分が今作っている作品を現在進行形で見せていきたい気持ちがあったんです。 

石内:当時写真ってシリアス・フォトと商業写真ってはっきりと分かれていたんですね。誰かのためにではなくて自分のために撮る、表現として撮る。感覚としては文壇に近かったと思う。表現したいことを、文字化する代わりに映像化するという感覚。だからカメラ雑誌ではなくて、伝統的な日本の文学の枠組みである同人誌的なものを作るっていうのは、私にはしっくり来た。だから大きく言うと日本の表現の歴史についての話になるかもしれませんが。

main <マン>2号(1996年6月6日)
編集発行人:石内都 楢橋朝子

Main, Vol 2, June 6, 1996
Editing & Published by Ishiuchi Miyako & Narahashi Asako

IV:ちょうど外からみると日本写真が変わっている時期だったんです。もちろんお2人の作品としても貴重な資料ですし、日本写真史という視点から見てもまた重要な雑誌です。刊行から20年が経っていますが古く感じるどころか、むしろ生き生きしている。編集会議はどのように進めたのですか?

石内:誰と会うか、会いたいか等2人で話し合って1回ずつ決めて行きました。お互いに交互に人を選び、1人ずつゲストを呼んでいます。編集方針とか作らなかったよね、あえて。

楢橋:基本的に毎号8ページは、必ず自分の作品や文章を掲載する。そのほかのページは対談や、自分で好きな写真集や本を紹介するマイフェイバリットというページとか。レイアウトはデザイナーの友人(石塚哲也)にお願いして、缶詰になって1日で作る。部数は、ばらつきはありますが基本的に毎号650部くらい。自費出版だから当然自分たちでお金を出しているし。途中でコマーシャル、広告を取ろうかっていう話にもなったのですが、やめたんですよね。

石内:ずっとモノクロだったのが途中でカラーになってお金がかかっちゃってね。そうそう、うちら割り勘でやってるから、高いよね、なんて話して、500円で販売していたのをこの号だけ700円にしたりして。こういうのも世界ではあんまりないかもしれない(笑)。2人とも素人だから色々なことよくわからなくて、基本的に家内工業でしたね。宛名書きもしたし、本屋さんは置いてもらえないからギャラリーとかイベントで手売りしたりしていました。この4年間って私はあっちこっち外国に行っていた時期で、刷りたてをアムステルダムとかニューヨークに持っていって見せたりとか、笠原(美智子)さんが紹介してくれて死ぬ直前のジョン・コップランズに会いに行って、その時の写真を掲載したりとか。自分たちの中ではパーソナルなものだから、逆にグローバルだと思っていて、写真だから言葉関係なく通じるし、変に日本っぽくはなかったと思います。でもたった2人の個人的な歴史だけどそれがこういう写真っていうもっと大きな意味の歴史にも重なったんだと思う。20年なんて信じられませんが…でも自分で言うのもアレですが、そんなに古い感じしないですよね、読んでいて(笑)。

main <マン>3号(1996年11月10日)
編集発行人:石内都 楢橋朝子

Main, Vol 3, November 10, 1996
Editing & Published by Ishiuchi Miyako & Narahashi Asako

IV:女性2人で、というのは重要な要素でしたか?

楢橋:石内さんがやられてきた時代とやはり12年ずれているし、私は女性だけでなにかやろうっていう意識が特別あったわけではないんです。

石内:私は意識がありましたね。ちょうど学生運動世代なので、70年代初頭のウーマンリブの初期の活動には当然関わりもありました。その時にやり残したことがたくさんあって。そういう流れで女性を10人集めて「見られる側から見る側へ、男を、撮る」というテーマで『百花繚乱』展を開催したんです。テレビはいっぱい取材に来たの、なぜかと言うと私は男のヌードを撮っていたから。「女が男のヌードを撮ってる」ということですごくセンセーショナルに話題になったりして、でも完全に写真界からは無視。どうしても写真っていうと男の世界、という考え方があって、「女が写真を撮る」っていうことにすごく奇妙な差別があったんです。すごく才能がある女性作家も、そういう背景があって作家をやめてしまう事が大半だったんですよ。そういうこともあって、頭の隅にはいつも「女性」という意識がありました。でもこの企画は女だからやっているわけではないし、女だというのは言い訳でも動機でもなくて、あくまで1つの前提にすぎず、その上できちんとしたものを作ろうっていう気持ちがありました。

楢橋:確かに。『main』をやっている時は、石内さんが女性だからとか、先輩として尊敬するからとか、そういう意識は消えてしまうくらい自然だったんですよね。

 石内:年とか関係なく一緒に作業している立場は対等なのよね。だから言いたいことは言うし、いい雑誌を作ろうっていう気持ちが共有できていれば良いんですよね。

楢橋:女性だからやってるんじゃないってわざわざ言いたいのは、「女性だから」を売りにしている人たちが私は個人的に苦手だというのもあるかもしれない。石内さんは中性的な部分があるから、話しやすかったんですよね。

石内:言いたいこと言うしね。喧嘩別れもしなかったし。

楢橋:怒られたりはありましたけど(笑)。

石内:まあこれだけ2人で作っていればね。それは色々ありますよね(笑)。でも色々な女性がいる中で朝子さんと出会ったっていうのは、ある種価値観が通じるところがあったからなのかもしれません。だからやっていてすごく面白かったですね。

main <マン>4号(1997年3月22日)
編集発行人:石内都 楢橋朝子

Main, Vol 4, March 3, 1997
Editing & Published by Ishiuchi Miyako & Narahashi Asako

IV:これまで100年間の写真雑誌の歴史を振り返ってみると男性写真家が撮影した女性のイメージが大半を占めるんですよ。だからそれを振り返りつつ、これからの女性像を考えないといけないっていうことも自分のプロジェクトのテーマでもあるんです。カメラメーカーとカメラ雑誌の両方が女性のイメージを作り上げてきたとも言えます。 

石内:さっき言ったように、百花繚乱展の時は見られるのではなくて、女性が積極的に「見る」という視点から展覧会をやったんですが、無視されちゃった(笑)。でもあれはやってよかったなって今は思ってますけどね。

楢橋:『アサヒカメラ』に最初に『main』が紹介された時にも「女性写真家2人が」って書いてありました。でもとっつきとしてはそれしかないんだろうなって思います。

石内:いいんですよ、それは。真実だもん。だからどうした?っていう。その次です、大切なのは。出発点はどこでもいいんですよ。でも女性っていうだけで社会との関係性の中で意識させられるよね。本人は女であることを意識していないにしても周りが言ってくる。それは常に女性の写真家として避けて通れない問題なんだと思います。最近では色々な社会運動があって少し変わってきているのかなとも思いますけど。

楢橋:私が80年代中旬から活動していた時期も、先輩方がみなさんマッチョな男性陣が多かったので(笑)今思えば無茶な教えとかもありましたけど当時はパワハラという概念もないし、受け入れざるを得ないようなことはありましたね。そう考えると私の世代の女性作家の状況も、同じようなものかもしれない。

石内:やっと最近じゃないですかね、女性写真家の受け止められ方が変わってきたのは。面白いですよ、女は。だって女性の写真の方がいいんだもん、圧倒的な力があるしテーマもすごいし。

楢橋:しなやかですよね。作品を見ていいなと思うと女性だったということが多くなった気がします。

石内:自由だし、発想が全然違うんですよ、男性と。

main <マン>5号(1997年9月22日)
編集発行人:石内都 楢橋朝子

Main, Vol 5, September 22, 1997
Editing & Published by Ishiuchi Miyako & Narahashi Asako

IV : この『main』があったからこそこういう作品が作れたっていうところはありましたか。

石内:私の場合は『消える街』っていういわゆる赤線、遊郭の街を取材するシリーズを掲載していたのですが、これは雑誌連載じゃなければできなかったなと思います。わざわざ掲載するために作品を作ると言うことではなくて、今現在撮っているものを連載する、という形で、現在進行形のプロセスを見せられてよかった。この先どうなるかわからないけれど今はこうです、っていう現状を紹介している、それが雑誌の面白さです。

楢橋:写真集に比べてハードルが低いのも利点の1つです。写真集はコストもかかるし手間もかかる。でも雑誌だと8ページで1回の旅行記くらいだったらまとめられる。あとレイアウトが自由にできるっていうのは、雑誌ならではですよね。雑誌と並行して03FOTOSでの展示も定期的に開催し続けていたので、撮りためているものの中から雑誌向きの写真、展示の方が向いている写真っていうのがなんとなく出てきて、そういう使い分けをしていました。

石内:そうだよね、私もここでしか発表していない写真も結構あります。

main <マン>6号(1998年2月22日)
編集発行人:石内都 楢橋朝子

Main, Vol 6, November 22, 1998
Editing & Published by Ishiuchi Miyako & Narahashi Asako

IV:楢橋さんは自分の場を持つことと、雑誌を持つことの2つにどのような違いを感じていましたか?

楢橋:90年にオープンしてから年に数回のペースで個展を開催していましたが、そのうち来るメンバーが固定してきたんです。石内さんや森山さん、中平さんも来たりして、そういう喜びはあったものの、そのほかの部分では案内状を出した人限定という感じであまり広がっていかない感じがした時期だったので、良い突破口になりました。カメラ雑誌での連載と重なったこともあり『main』との相乗効果で来場者も増え、全然知らない人が来るようになりましたね。

石内:03FOTOSでは、『main』刊行の度に、そこで発表した作品を中心にした2人展も何回か開催していたんです。

楢橋:細長いギャラリーの壁面1面ずつお互いに担当してね。

main <マン>7号(1998年9月20日)
編集発行人:石内都 楢橋朝子

Main, Vol 7, September 20, 1998
Editing & Published by Ishiuchi Miyako & Narahashi Asako

IV: 誌面と展覧会の連動は面白いですね。西洋ではプリントベースで写真史を語りますが、日本の写真の場合は、雑誌や写真集などの紙媒体を含めて写真文化を見ておくことがとても重要ですよね。

石内:日本はあまりオリジナル・プリントは関係ない文化だし、さっきイベントに人が集まって、って言ったけど、そこにコレクターなんていないんですよ、当然。一応プリント販売していたんだけど、10号出す間に5回開催して売れたのなんて数点じゃないかしら。

楢橋:そういうことが大切だって言われるようになったのは本当に最近ですよ。

IV:あとはなぜか日本人の写真家は結構文章を書きますね。

石内:さっき言ったように、やはり日本人は写真とは別に、本とか文字とかに対する特別な文化を持っているのかもしれない。だから写真家も文章を書かないとまずいんじゃないかって思って、朝子ちゃんにも書け書けって一生懸命言ってたんだけど、彼女途中から書かなくなっちゃって、私は怒ってました(笑)。私は雑誌だからこそ文字をなるべく多く書かなきゃと思って頑張って書いたんですよ。それによって厚みが出て、写真だけではなく別の何かも伝わるだろうと言う狙いがありました。だから結果的にはたまたま2人の役割がすごくうまくいったんだと思います。彼女は写真で見せる、私は読ませるみたいなことを結構意識していました。

main <マン>8号(1999年3月3日)
編集発行人:石内都 楢橋朝子

Main, Vol 8, March 3, 1999
Editing & Published by Ishiuchi Miyako & Narahashi Asako

IV:『main』の刊行によって自分の作品の見え方が変わってきたっていう効果は感じましたか。

石内:基本的にはあくまで普段の写真の延長として考えていたから、特に『main』だから、っていう特別なことはなかったですが、2人でやるから、当然バランスっていうものは意識していました。ライバル意識とまではいかないですが、彼女がどういう写真を出してくるのか、やっぱりどこか批評的な精神をもっていなければできないよね。なんでもいいよ、なんてことない。それはお互いに意識していたと思います。

楢橋:今見ると、ちょっと力入りすぎてかっこ悪いな、今だったらセレクトしないなとかいうのがちょっとずつありますよね。

石内:私は力が入るっていうより割と日常の延長みたいな、大雑把な意味で日記的なところがありましたけど。それもいいんですよ。やっぱりその時代の真面目に過ごした日々がここに入っているわけだから。彼女と私はそれぞれ写真との距離感が違ってその違いが出てる。一緒だったら面白くないでしょう。その違いがはっきりしていたから出来たんだと思います。

この時期は色々なインディペンデントマガジンがあった時期でもあったんですよ。

楢橋:mainと同時期ということでは、他には造形大にいた森本美絵さんと佐原宏臣さんが作っていた『回転』とか印象に残っています。

main <マン>9号(1999年11月11日)
編集発行人:石内都 楢橋朝子

Main, Vol 9, November 11, 1996
Editing & Published by Ishiuchi Miyako & Narahashi Asako

IV:やっぱり雑誌を作るっていうことに対して可能性を感じる人が多かったんですよね。こういう文化は海外にはありません。ZINEはありますよ。でも写真の雑誌はすごく珍しいです。

石内:コストもかかるしね。テキストだけだと割と簡単に印刷もできるし。でも確かにお金はかかったけど、別にいいじゃない。なんか新しいことが具体的に形になるっていうのがすごく楽しかったし、嬉しかったんだと思う。そこにある種の喜びみたいなものがあったから、10号まで続いたんでしょう。それは大きいよね。言ってみればそんなに評判が悪くなかったっていうことだね。

楢橋:最初から10号まではやりましょうっていうのは決めてました。

石内:4年かかりましたが、必要な時間だったんですよね。作っていてよかったね、夢にも思わなかった『main』の取材があるなんて。

IV:『main』についてお2人で取材受けられたことは、と聞いたら無いとおっしゃっていたので驚きました。 

石内:日本だと雑誌は軽いメディアなので、時が経つと忘れ去られてしまう。それを誰かが発掘することがあってもすごく時間が経ってからなんです。でもこうして振り返ると、実はとても大切なものを作ったんだなと思う事が出来ました。

main <マン>10号(2000年6月15日)
編集発行人:石内都 楢橋朝子

Main, Vol 10, June 15, 2000
Editing & Published by Ishiuchi Miyako & Narahashi Asako

協力:The Third Gallery Aya

編集:深井佐和子

楢橋朝子のウェブサイト:
http://03fotos.com/asako-narahashi/